雨の声を聞く・・・、忘れ去られた日本語の美しさ

「サービス創造学部」准教授の清水です。久しぶりの日記的投稿です。

友人たちと食事をしていた時のことですが・・・。

 - 随筆とエッセイの違いはなにか ー

問いかけとも呟きともつかない言葉が、皆のスプーンの動きを鈍くしました。
声の主は、現役の編集者で、いわば、文章のプロなのです。だから、自身それなりの答えを持っているはずなのですが、ワインの酒毒にでも魅せられたのでしょう。酔興な質問を投げかけてきたのです。

 - この際、”学問的にどう違うのか”などといったことはさておき、僕はこう思うんだ -

彼は続けます。”エッセイ”は、身の回りに起こった日常を書き写したものであり、いわば人生の断片にすぎない。が、”随筆”の方は、それだけでなく、季節の移ろいや、哲学的な警句などのスパイスによって味付けされていなくてはならない。
瑣末な出来事も深遠な人生論であるべき、といったところでしょうか。

 - では、”エッセイ”より”随筆”の方が高尚なのか -

私のような門外漢は、ただ浅薄な知識のみを頼りに、愚問を投げかけるだけで精一杯なのですが、彼は肯定も否定もせず、悟境にたどり着いた老大家のごとく凝っとしたままです。

さて、学生の皆さんはどう思われるでしょう。実際は、”随筆”は文学の一形式であり、”エッセイ”はその英語訳essay(フランス語のessai)ですから、両者は明確に定義されず使われています。けれども、このような疑問を契機として、日本語について見つめ直すのも悪くはありません。

丸谷才一という評論家が書いた『文学のレッスン』(新潮文庫)という対談集に、興味深いことが書かれてあります。随筆を「戦前」「戦後」に分けて比較しているのですが、かの炯眼にかかれば、前者は後者と比べて、どちらかといえば内容が薄い。けれども、達意の文章で補完することによって、佳什とされる作品も少なくありません。文中では、今でも書店で見かける内田百閒を挙げていますが、百閒といえば、短編の名手と謳われた吉行淳之介や、天稟の才で知られる三島由紀夫でさえ賞賛していたわけですから、面白いものです。
考えてみると昔の人々は、たとい、文人でなくても、現代人である我々より文章に触れる機会が多かったのかも知れません。電話やテレビ、ましてやスマホなどない時代、近況を伝え、それを知る手がかりは、すべて文章にあったわけです。
学生の皆さん、良書に触れ、自ら文章を書いてみましょう。文章、ひいては日本語に熟達するためには、近道はありません。

それでは最後に、我らが千葉商科大学のある市川に縁ある文人、永井荷風の言葉を記したいと思います。

”深更、雨声瀟瀟”(しんこう うせい しょうしょう)

人々が寝静まった真夜中、庭の樹々や燈籠を濡らす雨の声が聞えてきそう・・・。風雅ですね。
外国語も良いですが、日本語ほど絖がごとき光沢を放つ言葉もそうそうあるものではありません。夜半、研究室の窓ガラスを流れ落ちる驟雨をぼんやり眺めていると、本当にそう思います。

ではまた。