投稿者「清水喜久」のアーカイブ

授業で教えたいこと

サービス創造学部 准教授の清水です。

スタインベック*の小説にこんなものがあります。
ある若者が、戦争に行っていて、自分の村に帰ってくる。村に帰ると、見知らぬ老人が黙ってホースを向けて、水を若者に飲ませてやるのです。若者はその水をゴクゴク。それを見ていた件の老人が一言・・・、

 - どうだ、自分の故郷の水はうまいだろう -

たったこれだけ・・・。簡単明瞭、けれど、小説の真髄はこんなところにあるんではないかいな?

内容はうろ覚えなのですが、たしかこんな感じだったと思います。これは、小説家の開高健が書いたエッセイ(開高健「白いページ」光文社文庫にて復刊)の一頁なのですが、さすが博覧強記の筆にかかれば、小説を、芸術を、ときに自我の創造を・・・、一言半句うまく書き表すものだと思います。

論文は小説とは違います。が、名文から学ぶことは、決してマイナスになることはありません。有名な話としては、法曹を目指す人々が、志賀直哉の文章を模写して文章表現を学んだ、なんて逸話があります。志賀直哉の簡潔でいて、高い芸術性を維持し続ける文体が、実務家の気に入るのでしょうか。
現代は、およそ名文と思えるようなものに出会う機会が少なくなりました。それは、読む側の我々にも原因があるのかもしれません。はたまた、ビジュアルや音声などによるコミュニケーションが主流になってきたからなのかもしれません。けれど、複雑な事象や心象を、文章できちんとまとめあげるスキルというのは、今も昔もビジネスマンにとって重要なものです。

私も教員の一人として、学生の皆さんに、自分自身の頭で考えること、そして、それを他の人に伝える技術を教え続けたいと考えています。

*ジョン・アーンスト・スタインベック(1902-1968年)
アメリカの小説家、劇作家。代表的なものに「怒りの葡萄」「エデンの東」などがある。1962年ノーベル文学賞受賞。

古きよき冒険小説から学ぶこと

サービス創造学部 准教授の清水です。

専門について学ぶのは、なにも専門書からだけとは限りません。時として、思いがけないところから思いがけないことを学ぶこともあるものです。今日はその一例をご紹介しましょう。

先日、自宅の書庫を掃除していると、一冊の古ぼけた文庫本が見つかりました。いつ買ったものか、はてさて皆目検討がつかないのですが、黄色くなった表紙から推すに、相当の年数が経過していることは明らかです。
知る人ぞ知る冒険小説の古典的名作「深夜プラス1」(ギャビン・ライアル / 菊池 明 訳、早川書房)。それがこの本のタイトルです。作者は英国空軍出身の作家で、その時の経験を基にした冒険小説をいくつか書いています。
この作品もそのひとつで、ストーリィは至って簡単。”二人のプロフェッショナル”(一人はガンマンで役割は”ボディガード”、もう一人はエージェントで”ドライバー”に徹します。)が、依頼人である訳ありの事業家を”安全”且つ”時間厳守”で目的地に送り届けるというものです。

この小説が、どういう専門性に生かせるのか?

それは、取りも直さずプロフェッショナルとしての倫理観といえましょう。
一人のガンマンと一人のドライバーは、①決してお互いの専門領域を侵しません。相手の役割と能力を”充分に理解”し、”敬意を払っている”のです。それでいて、②必要とあらば”協働”して事にあたります。そしてなにより、③プロフェッショナルとして”道具”に徹底的にこだわります。ここに、現代の高度に分業化された専門職に共通する”なにか”を見つけ出すことは出来ないでしょうか。
残念ながら、物故して久しい作家は、その詳細について多くを語ってくれません・・・。しかし、組織についての洞察や、特定のミッションにコミットするプロフェッショナルとしての規律(ディシップリン)のようなものを遺してくれています。
少々強引ですが、ここから得られる教訓を援用して、大学で学ぶ上での心構えとなるべきことを記してみましょう。

①(自分自身の拠りどころとなる)進むべき方向性を漠然とでもいいから考え続ける。
②(別の専門家などと情報交換を円滑に行うために)コミュニケーションスキルを身につけるよう意識する。
③(学生の本分たる学びのツールである)教科書、そしてノートやペンは上等なものを揃える。

いかがでしょうか。

余談ですが、「深夜プラス1」のように書かれた時代背景が少々古い(原書初出は1965年)作品は、ややもすると読みにくいと思われがちです。・・・が、登場人物の個性や人間性、そして取り巻く環境などを理解する上では問題ないといえるでしょう。そんな瑣末なことを気にするよりも、雨に濡れたパリのカフェでの虚無的な光景とか・・・、旧式のスチーム暖房にむせぶスイスの高級ホテルのスイートルームの気だるさとか・・・、朝から嗜むヴィンテージシャンパン・クリュグの誘惑などを五感で想像する方が、知的好奇心にとってはるかによろしい。
尚、タイトルの「深夜プラス1」ですが、小説の最後の方に理由が出てきます。このタイトルのつけ方がなんともシャレてるんですな。日本人にはなかなかこのセンスは難しいものです。

最後は脱線してしまいましたが、”次世代サービス創造を担うプロフェッショナル”として、楽しみながら、時に真剣に頑張ってもらいたいと思います。

コンサルタントから学ぶビジネススキル

あけましておめでとうございます。サービス創造学部准教授の清水です。

新年早々、コンサルタントをやっている友人が相談にきて、気づかされたことがありました。今日はそれについて書いてみたいと思います。コンサルタントといえば、今も昔も人気職種のひとつです。特に、外資系のトップコンサルファームの戦略系コンサルタントといえば、仕事のやりがい、報酬、どれをとってもトップクラスといっても過言ではないでしょう。友人がそのような逸材かどうかは別として(失礼!)、一流のコンサルタントに必要なスキルについて考えてみるのも、悪くはありません。

街の本屋のビジネス書コーナーを散策すると、じつに多くのコンサルタント関連本を見つけることができます。内容はといえば、60分でわかるコンサルのお仕事的な軽いものから、効果的なブレスト、ロジカルシンキング云々、実務に通暁したものまで多岐にわたります。
友人は、コンサルタントとなって幾星霜。いくつかのファームを渡り歩き、とにもかくにもリストラされず勤めてきたわけですから、少なくともそれなりの効果をあげてきたのでしょう。で、その彼によれば、優秀なコンサルタントにとっては、なによりも”柔軟なコミュニケーションスキル”が大切な能力ということになるようです。
これはよく考えてみれば当然で、お客様の意向や問題を汲みとり、それに対する解を見いだし、そしてまた、お客様にアウトプットとしてお返しする、それがコンサルタントというビジネスのスタンダードであるならば、自ずから明らかです。つまり、”入口”と”出口”がうまくいかなければ、どんなに途中のロジカルシンキングが適切で、はたまたプレゼンのスライドが巧くても、お客様から耳の痛くなるおコトバを頂戴し、ココロに大いなる禍根を残しちゃうわけですね。人の目は、ついつい華々しい部分にだけかまけてしまい、基本をおろそかにしてしまいがち・・・。気をつけないといけません。
ついでにいうと、コンサルタントに限らず、ビジネスに携わる者、特に、ひとつの部門を任されたシニアマネジャーや、大規模プロジェクトを統括するようなグループリーダーであれば、このコミュニケーションスキルを暗黙のうちに理解しています。“マネジャーの苦悩の種はコミュニケーションの難しさにあり”とは、昔の先輩たちから叩き込まれ、漂白の心に滴下した格言のひとつですが、会社での職位が上がるほどこのコミュニケーションの巧拙が問われてきます。それは、”上司との関係”においてだけではなく、むしろ”部下への配慮”の方が重要になってくることを忘れないでください。
部下との関係においては、リーダーシップ能力というものもあります。重厚長大な大企業の辣腕マネジャーの中には、良くも悪くも”頑ななスタイル”を持ち続けている方もおりますが、、、なかなか難しいものです。これについては、私にも私なりの経験則があるので、興味がある方は研究室に来てください。

いろいろ書きましたが、、、笑い、怒り、泣く、なぜこんな簡単なことが分からないのか、、、それがコミュニケーションのはじまりです。難しくはありません。本年も、皆さんに少しでも役に立つことを教えられるよう、実際のビジネス感覚を磨き続けるよう努力するつもりです。ではまた。

帝国ホテルの思い出

サービス創造学部准教授の清水です。
本日は、我々サービス創造学部のサポーター企業であり、常にサービス産業のトップを走り続けている帝国ホテルについての思い出を書きたいと思います。

ビジネスマン時代、都内のホテルを利用することが度々ありました。仕事での打ち合わせ、プライベートでの交遊等々・・・。都会のビジネスマン(ウーマン)がホテルを利用する大きな目的といえば、宿泊というよりもむしろこうした利用方法が大勢を占めるのではないでしょうか。従って、従業員の接客マナーは言うに及ばず、必然的にラウンジ、ダイニング、そしてバーのようなホテルの顔ともいえる付帯施設は洗練されていなければなりません。私たちが現役の頃のビジネスユースで最高峰のサービスを供する老舗といえば、かつての三大料亭の一角を担うK、ホテルNにあるフランス料理でもトップクラスのL・・・。でも、今回ご紹介する帝国ホテルは間違いなくその筆頭格にあると申せましょう。

紅燈きらめく銀座から、コリドーを抜け、ほど近いロケーションの気安さもさることながら、長い歴史に裏付けられた醇乎たるサービスがこのホテルの魅力です。メインエントランスから入って、磨きぬかれた淡色の床面と、頭上に輝くシャンデリア、そして中二階へと続く真正面の豪壮な階段のレイアウトはいつ見ても圧巻で、そこを中心として放射状に広がるサロンのようなグラウンドフロアは、ヨーロッパの一流ホテルの設えと同等の風格を備えています。左側のラウンジ・カフェで待ち合わせて、寿司か天麩羅、そしてメインバーであるオールド・インペリアル・バーへというのが常道でしょうか。
「伝統」と「格式」が醸すソフィストケイトされた空間美。帝国ホテルはこれからも日本を代表する高級ホテルであり続けるのでしょう。手前味噌になりますが、このような優れた企業に公式サポーターとして名前を連ねて頂けている千葉商科大学もまた素晴らしいと思います。

余談ですが、帝国ホテルのメインエントランスは、日比谷通り側にあります。ハイヤー等で行けば間違うことなくエスコートしてもらえるのですが、時々、迷ってぐるぐる廻っている人を見かけます。かくいう私もその張本人で、寒雨の夜、数寄屋橋辺りから、ふらふら下を向いて歩いていると、水たまりに映った波打つホテルの威容に惑わされ、自分の居場所さえ見失うことしばしばでした。
粋人いわく、「銀座の水には古くから酒仙の狐がいる。」とかいないとか・・・。足元ふらつく生酔いの夜にはご用心ですネ・・・。

社会で学んだこと

こんにちは。サービス創造学部 准教授の清水です。

皆さん、夏休みも半ば、いかがお過ごしでしょうか。

さて、私もサービス創造学部の専任教員になって、早や4ヶ月が過ぎました。
それ以前は、サラリーマンをしていました。いくつかの会社を回ったので、それなりに面白い経験をすることが出来たのではないか、と自負しています。会社はかわりましたが、携わってきた業務は一貫していて、企業財務や経営企画のような本社機能だけです。この財務や経営に関する部門は、ある意味企業にとって中枢業務であり、それ故、ある程度の緊張感を持って仕事をすることができました。適度な緊張感があったからこそ、やりがいがあった、と言っても良いかも知れませんね。
私が、企業という、最も曖昧で、最も難しい大学で学んでいたとき、今も思い出す情景があります。今日はそれについて述べたいと思います。

初めて、米国系企業の日本法人(いわゆる外資系企業ですね)に勤めたとき・・・、今と違って、外国人とともに働くことがそれほどメジャーでないとき・・・、米国人の上司が本国からやって来てミーティングが開かれました。といっても、こちらはまだ、金融機関に3年ほど勤めただけのヒヨっこ、おまけに事業会社での財務経理に関する実務経験は甚だ心もとない。せいぜい、英会話が少しくらい出来るというだけの新人そのものですから、会議中には並み居る諸先輩の後ろに張りついて、終始一言も喋りませんでした。真夏の午後、全面ガラス張りの高層ビルの眼下には、都会の街並みが涼しげに横たわっています。耳元には触りのよいネイティブイングリッシュ・・・。
さて、会議が終わってみると、私はその上司に呼ばれたような気がしました。”気がしました”というのは呼ばれたかどうかも良く分からなかったということです。だいいち、本社のオエラ方がいちいち新人に声をかけるとは、寸毫も予想しなかったのです。

– キミは、なぜ会議中に発言しなかったのだ –
– 座っているだけなら、会議に出る必要はない –

たぶん、こんな感じのことを指摘されたのだと記憶しています。でも、決して”怒られた”のではありません、”指摘された”だけなのです。

彼の言わんとしていることが、ぼんやりと理解できました。
それから一生懸命、財務や経営に関する勉強や実技に励み、会議でもめくるめく積極的に・・・とはいかないにしても、それなりに発言するよう努力しました。そうして、その会社を去るまでになんとか目鼻がつくような人材になれたのではないか、と思っています。ええ・・・、たぶん・・・。

皆さん、私が言いたかったことがお分かりでしょうか。
授業では、先生の言うことをじーっと聞いているだけではダメだということです。授業はインタラクティブなものでなければ意味がありません。かのソクラテスだって問答を重視していたのです。
幸い、サービス創造学部には、実践の英知を養うべく鍛え抜かれた数多の科目があります。皆さんは、自ら呻吟し、考えを醸成し、そうしてアウトプットをださねばなりません。大丈夫、学生のうちは、間違っても恥をかくくらいです。“致命傷”にはなりません。社会人になってから訓練するよりも、今、トレーニングする方が、はるかに有利ですよ。

え、私が社会という大学をうまく修了できたかって?うーん、20年在籍しましたが、それは分かりません。皆さんの評価にお任せします。では、秋の授業でもがんばりましょう。

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◆大学広報誌「Inside」 https://mit.prof.cuc.ac.jp/fsiblog/2014/04/05/18531

最新学部パンフレット:https://mit.prof.cuc.ac.jp/fsiblog/2014/04/12/18621

◆学部インハウスメディア「Kicky」 :http://kickycuc.jp/

◆サービス創造学部HP :http://www.cuc.ac.jp/dpt_grad_sch/service/index.html

雨の声を聞く・・・、忘れ去られた日本語の美しさ

「サービス創造学部」准教授の清水です。久しぶりの日記的投稿です。

友人たちと食事をしていた時のことですが・・・。

 - 随筆とエッセイの違いはなにか ー

問いかけとも呟きともつかない言葉が、皆のスプーンの動きを鈍くしました。
声の主は、現役の編集者で、いわば、文章のプロなのです。だから、自身それなりの答えを持っているはずなのですが、ワインの酒毒にでも魅せられたのでしょう。酔興な質問を投げかけてきたのです。

 - この際、”学問的にどう違うのか”などといったことはさておき、僕はこう思うんだ -

彼は続けます。”エッセイ”は、身の回りに起こった日常を書き写したものであり、いわば人生の断片にすぎない。が、”随筆”の方は、それだけでなく、季節の移ろいや、哲学的な警句などのスパイスによって味付けされていなくてはならない。
瑣末な出来事も深遠な人生論であるべき、といったところでしょうか。

 - では、”エッセイ”より”随筆”の方が高尚なのか -

私のような門外漢は、ただ浅薄な知識のみを頼りに、愚問を投げかけるだけで精一杯なのですが、彼は肯定も否定もせず、悟境にたどり着いた老大家のごとく凝っとしたままです。

さて、学生の皆さんはどう思われるでしょう。実際は、”随筆”は文学の一形式であり、”エッセイ”はその英語訳essay(フランス語のessai)ですから、両者は明確に定義されず使われています。けれども、このような疑問を契機として、日本語について見つめ直すのも悪くはありません。

丸谷才一という評論家が書いた『文学のレッスン』(新潮文庫)という対談集に、興味深いことが書かれてあります。随筆を「戦前」「戦後」に分けて比較しているのですが、かの炯眼にかかれば、前者は後者と比べて、どちらかといえば内容が薄い。けれども、達意の文章で補完することによって、佳什とされる作品も少なくありません。文中では、今でも書店で見かける内田百閒を挙げていますが、百閒といえば、短編の名手と謳われた吉行淳之介や、天稟の才で知られる三島由紀夫でさえ賞賛していたわけですから、面白いものです。
考えてみると昔の人々は、たとい、文人でなくても、現代人である我々より文章に触れる機会が多かったのかも知れません。電話やテレビ、ましてやスマホなどない時代、近況を伝え、それを知る手がかりは、すべて文章にあったわけです。
学生の皆さん、良書に触れ、自ら文章を書いてみましょう。文章、ひいては日本語に熟達するためには、近道はありません。

それでは最後に、我らが千葉商科大学のある市川に縁ある文人、永井荷風の言葉を記したいと思います。

”深更、雨声瀟瀟”(しんこう うせい しょうしょう)

人々が寝静まった真夜中、庭の樹々や燈籠を濡らす雨の声が聞えてきそう・・・。風雅ですね。
外国語も良いですが、日本語ほど絖がごとき光沢を放つ言葉もそうそうあるものではありません。夜半、研究室の窓ガラスを流れ落ちる驟雨をぼんやり眺めていると、本当にそう思います。

ではまた。

バーでサービスを考える

サービス創造学部 准教授の清水です。

あるホテルのバーにいた時のことです。

深紅のルビーを溶かしたような鮮やかな色をしたカクテルを前に、ある企業から相談を受けた案件について思案しているところでした。既に、時間は深夜にかかる頃合であり、また、日曜だったので、客はまばらで、宿泊客らしい夫婦連れが、緩慢な会話を続けるだけです。

真っ白なディナージャケットを粋に着こなした初老のバーテンダーが、

- よろしかったら、おひとつどうぞ。 -

見れば、小さなチョコレートです。
バレンタインデーに、お嬢さんからもらったチョコレートを大事にとっておいて、こうやって、気が向いた時にお客様に奉仕するのだそうです。

- ありがとうございます。 -

甘く整った矩形は、深紅のカクテルとよく似合い、疲労を包み込みながら身体の奥底へと溶け込んでいきました。カクテルグラスは、薄っすら氷をまとわりつかせたまま、大時代なシャンデリアの灯りが曳く淡い楕円に寄り添うように、静かに佇んでいます。

・・・そういえば、以前、銀座でも指折りの名バーテンダーに伺ったことがあります。

 - バーは、お酒を売っている場所ではありません。お時間をお売りしているのです。お客様に存分に寛いでもらって、明日へ向かって英気を養っていただきたいのです・・・。 -

- なるほど。 -

人生は艱難辛苦、時としてその重みに耐え切れなくなることがあるのかもしれません。しかしまた、仮構の鬻ぐ繁華な夜にもささやかな癒しがあって、茫洋たる生活を彩りあるものにしてくれるサービスがあるものです。それはほんの一瞬の閃きに過ぎないものかもしれませんが、人々は夢とも現ともつかない灯火に安堵を見出だし、あくせく働き、また家路につくものなのでしょう・・・。
ここにもまた、サービスの本質を考えさせるなにかがあるような気がします。

サービス創造を目指す教員の一人として、その片鱗を少しだけ垣間見たような一日でした。

「ロング・グッドバイ」

サービス創造学部 准教授の清水です

深夜、テレビを見ていると、「ロング・グッドバイ」というドラマが放映されていました。フィルム・ノワール*を思わせるモノトーンの色調、セリフの少ない演出など、なんとなく深夜に合った雰囲気だったので眺めていると、はて、これはどこかで読んだようなストーリだな、と気づきました。 そうです。ミステリーファン(本当は文学に入るべきものですが)なら知らぬ者なき、巨匠レイモンド・チャンドラーの『The Long Goodbye』(『長いお別れ』(清水俊二訳))です。最近、村上春樹さんが新たに訳出(『ロング・グッドバイ』共に早川書房)したものがあるので、学生の皆さんは、そちらの方が馴染みやすいかもしれません。

内容はといえば、怜悧で雄偉な探偵が、都会の吹き溜まりを喘ぎながら、事件を解決するという、お決まりのハードボイルド小説です。ところが、チャンドラー小説の主人公である探偵フィリップ・マーロウは、それほど切れ味よくなく、例えば、ギャングに襲われ殴られる、お酒によってフラフラになる、そしてまた、不当な事件で警察に捕まってしまう、などなど、散々な目に遭遇します。
では、なぜこの小説が長い間、人の心を打ってきたのでしょう。それは、ひとえに、主人公マーロウの生き方のカッコよさにあるのでしょう。マーロウは、自分自身の信念に従ってしか行動しないのです。人から命令されようと、脅されようと、あるいはそれが客観的に不利な選択であろうとも、、、納得出来なければ、決して自身を欺かないのです。そうして、孤軍奮闘、昼間は見栄を張って生き抜き、夜更けに独りカクテルを舐め、窓から流れ込むロサンゼルスの猥雑なネオンと、柔媚な空気に心を委ねるのです。
現在の社会において、マーロウのような生き方は、多分(?)無理でしょう。しかし、だからこそ、小説の世界でそのようなことが許された時代に思いを馳せるのもよいものです。

最後に、マーロウのとっておきのセリフをご紹介したいと思います。『ロング・グッドバイ』ではないのですが・・・。

- 強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きている資格はない。 -

実社会でも役に立つかもしれません。
ではまた。

*フィルム・ノワールはフランス語で”暗い映画”の意。転じて、40年代以降の犯罪映画を表す言葉となった。ハリウッドを出自とする一連の作品が有名だが、60年代のフランス映画も出色の出来栄えである。

実学と教養

サービス創造学部 准教授の清水です

-  最近は、教養のある人材がへったな・・・  -

だいぶ昔になりますが、勤めていた会社の経営者のひとりが車の中で呟いた言葉です。その方とは縁遠くなり、いまや真意を確かめることは出来ません。しかし、辛酸をなめてトップへ君臨した逸材が、単に”勉強ができる人間”を”教養ある”などと表現することはないことくらい、ある程度社会経験を積んだ人間であれば、誰にでも気づくはずです。

そこで今日は、教養について考えてみたいと思います。

教養を辞書でひくと、学問や知識とともに、社会生活をおくる上で不可欠な文化的知識などと書かれてあります。広く、実学として知られている教養としては、この”文化的知識”が重視されるのです。昔のビジネスエリートには、幅広い文化的素養が求められました。ビジネスに関して言えば、経営や法律などの社会的な実学にくわえ、それ以外の知識・・・、文学、音楽、そして歴史に関することなど、多くのトピックについて懇談されたものです。例えば、アップルコンピュータのカリスマ経営者だったスティーブ・ジョブズ氏は、自身も芸術家肌であり、また側近にもそういった感性を求めていたとの逸話がありますが、ビジネスの発想に、ビジネス以外の素養が有益であることの証ともいえそうです。

はるか昔・・・

英国紳士たちの間では、ディナーの後に、最高のブランデーを嗜み、シガーを燻らし、語らいを続ける光景がしばしば見られました。現代では信じがたいことですが、男性優位で進められた会話には、政治、経済に始まり、文学、音楽などの芸術論など・・・、幅広い事柄が俎上にのせられていたようです。そして時折、スローでメロウな時間と空間から、より素晴らしいアイデアや決断が編み出されてきたのでしょう・・・。ただし、この辺りは、想像ですが。

というわけで、学生の皆さんも、大学にいる間は、専門的知識の勉強に励む一方、幅広く教養を身につけて欲しいと思います。幸い、サービス創造学部には、オリジナリティ溢れるカリキュラムがありますし、大学には充実した蔵書を誇る図書館もあります。これを使わない手はありません。そして、学んだ内容を様々な場面で役立ててみて下さい。知識は経験として身につけなければ、決して真の教養とはならないとおもうのです。

古書店街をめぐる

サービス創造学部の清水です。

先日、知の宝庫ともいえる神田神保町の古書店街をうろうろしてきました。神保町付近は、皆さんご存知のように昔から大学、ビストロ、古書店、はては楽器屋、ジャズ喫茶とまるで日本版カルチェ・ラタンのような雑多な趣がある場所です。私も学生時代からこの辺りを散策してきました。

靖国通りを挟んで、北側には数多の飲食街、そして南側には老舗の古書店が軒を並べてお客さんが来るのを待っています。この辺りの古書店を学生の皆さんは覗いてみたことがあるでしょうか。昨今では、顧客重視の姿勢が金科玉条のごとく説かれ、お客に対する姿勢が柔らかになった店が増えましたが、ここには、今でも昔ながらの職人気質な老舗が残っています。今日はその雰囲気をお伝えしましょう。

目抜き通りからほんの少し奥まったところにあるK書店は、図書館からの依頼も多い専門店です。のみならず、その専門店ぶりを外観にはっきり表出しているがゆえに、一見客などほとんど訪れません。

- ×××の全集はありませんか? -

人気のない帳場の奥に、古い調度品と一体化したような主人は、毛糸の帽子を目深にかぶり、眼鏡の奥から鋭い眼光を投げつけ言うのです。

- あるけど、買うの?高いよ -

- ええ、あれば買いたいのですが・・・ -

- ×××だったら単行本で十分。全集なら○○○にしときなさい。配送料はまけておくから -

主人はそう言いながら、脇の書棚から十数冊の本をやおら引き出し、私に渡します。ぱらぱらめくると、まあまあ面白い。

小一時間もすると、神田の外れの裏路地に夕暮れが訪れます。慌しさに急きたてられるように店を出ると、たちまち仕事帰りのサラリーマンが目につきます。結局、最初に買おうと考えていた本は手に入れず、店主に言われた本を買ってしまったわけです。

- これはこれでいいのかな -

古きよき時代、レコード店ではお店がお客様の好みを聞いて、商品を薦めていたといいます。その頃は、時間の流れもゆったりしていたのでしょう。現代のように、個人主義が幅をきかせた世の中では、過剰な(押しつけがましい?)サービスは、よもや無用の長物であるやも知れません。しかし、こういった暖かいサービスもまた、”いいものだ”なんて思うのです。

皆さんはいかがでしょうか。